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来日の経緯

1979年の中国の大学では計画募集の学生であるため勉強科目も自分で選択できませんでした。外国語は一般的に言えば英語ですが、英語の先生が不足していたため、うちの学部生だけ日本語になりました。日本語を勉強することにより日本のことを知り対日親近感が生まれます。

とくに70年代、80年代日本をもっとも近いモデルにする中国にとっては鄧小平さんの訪日記録映画、日本の自動車、家電製品、新幹線、どれをとっても中国人にとって新鮮でした。私は自動車関連の専攻でもちろん日本に対する夢が膨らんできました。1回でもいいから日本に行ってみたいという願望はずっと来日まで持っていました。

外国語勉強期間の2年半はもちろん、大学4年間在学中、卒業後もずっと勉強を続けていました。当時日本語の書籍も少なく出版されたものをほぼすべて購入しました。卒業後年収300元ほどでしたが、親からお金を借りて320元ぐらいの「HITACHI-HARBIN」テープレコーダーを購入し来日まで日本語の勉強に使いました。

経営学の研修のために行った西安交通大学でも修士課程の大連理工大学でも時間を作って日本語科の授業を先生にお願いして聴講させてもらいました。

当時は勉強して日本語の成績がよくても、それだけで来日できるわけではありませんでした。公務員の大学教員ですから大学の出国者候補に指名されなければ道はありませんでした。幸いにも大連理工大学大学院で出国日本語レベル試験が合格であれば大学院の外国語試験合格に当たるとの決まりがあり、それで出国日本語レベル試験成績証明書(160点満点中123点)を手に入れました。

1992年の年末、新潟中央短期大学と友好関係を結んでいる山東工程学院の教員交換派遣の候補者選抜で第1号として選ばれ、1993年5月8日に憧れの日本に参りました。

2011年5月25日 その他お知らせ [RSS][XML]

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